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黒田如水「乱世ここに終わる」 その晩年と最期とは? [日記]

「軍師官兵衛」がとうとう次回の放送で最期を迎えます。放送は12月21日

関ヶ原の戦いは最終話に持ち越しですね。
少し時間があくので、先に黒田如水の晩年と最期を調べてみました。

関ヶ原の戦いに乗じて、九州での領地拡大をすすめた黒田如水は島津との決戦を目前に
家康のからの停戦命令を受け入れます。

その後、徳川家康は、息子黒田長政に勲功として52万3000石への加増をしました。
また、家康は周囲のススメもあり如水にも勲功恩賞・領地加増を提示しますが
如水はこれを辞退。その後は政治関わらることなく隠居生活を送りました。

晩年は福岡城に残る御鷹屋敷や、中興の祖と言われ再建に努めた大宰府天満宮内に
草庵などを構えます。亡くなる半年前ぐらいは温泉療養で有馬温泉に滞在しました。

最期は、京都伏見藩邸にて亡くなります。(1604年4月19日) 享年59歳
死の間際には、祈祷文とロザリオを自身の胸の上に置いて
遺体を博多の神父のところへ持ち運ぶことや家臣の殉死(一緒に死ぬこと)を
禁止しています。


辞世の句は「おもひをく 言の葉なくて つゐに行く 道はまよはじ なるにまかせて」

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晩年は家臣に対して冷たく振る舞ったそうです。これは当主の長政に家臣団の忠誠を
向けるためのものであったという。そして殉死を禁じたのも長政に優秀な部下を残す
ためだったといいます。
ちなみに官兵衛が家督を継いでから隠居するまでの間、一人の家臣も手討ちにしたり
死罪を命じたことはなかったそうです。

ドラマではどう描かれるんでしょうね?今から楽しみです。





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